眼鏡の研究所

サブカルだったアラサーの肥えだめ

早く人間になりたい~食べるということ

子供のころから食に興味がなかった。

自分で食を選ばなければならない社会人となったいま、毎日生じるのは「なんかうまくて健康にいいものが食いたいけど何も思い浮かばない」という苦しみだ。

 

外食と自炊だと、自炊のほうがまだ方針を立てやすい。

スーパーに行ってその日安い食材を買い、自宅の在庫も含めて消費する献立を考えればいいからだ。

自炊は「決まった食材と持てるスキルで料理をする」というルールがある縛りプレイと言える。縛りに従って食材を煮たり焼いたりすれば、だいたい料理の形にはなる。

自炊した料理をすべてインスタにアップする活動もしている。これも縛りプレイの一環で、「人に見せる」意識があると自然と品数が増え、彩りが加わるからだ。ただ火を通しただけの生ゴミのような食事になることを防ぐ効果がある。

ただ、どうしても準備片付けはめんどうくさいし、外食と比べても別にコストパフォーマンスはよくない。

 

自由度が高すぎる外食は難しい。

飲食店を眺めてみても、コンビニで棚を眺めてみても、欲求は料理の形に具体化されない。何も食べたくなくて店を出ることを何度か繰り返してから、時間もギリギリになってきてもうこれでいいや、と妥協をする。

他人と食事をするときは「食べられるものがなかったらどうしよう」というドキドキを除けば楽なのだが……(とはいえ相手も食に対する興味が薄いタイプだと最悪で、いつまでたっても店やメニューが決まらない)。

 

子供のころは偏食がひどく、味の想像のつかないものは食べたくないのでほとんど決まったものしか食べられなかった。したがって、高校生くらいまでほとんど外食をしなかった。

学校給食はどうしても気持ち悪く、一切手を付けられなかった。冷えてますますまずそうになる給食を眺める数十分は居心地悪いことこの上ない苦行だ。

 

いくらかマシにはなったものの、未だにひどい私の偏食を見ると、古い人は「いいものを食べていないからだ」「親の教育が悪い」とかなんとか言うのだが、想像のできないものを食いたくない食わず嫌いなのでどうしようもない。

母親は私に負けず劣らずの偏屈で「食べたくないものは無理して食べなくていい」という思想を持ち、二世帯家族5人の誰かが嫌いな食材は食卓に上がらなかった。

私の食事に関しては、食べられるとわかっているわずかな食材のなかで栄養計算をしていたらしい(母親は管理栄養士ではないが栄養の短大を出ている)。

 

そんな自分でも就職して実家を出て、自炊するなり外食するなりする必要が出てくると、どうしても「食べること」を意識せざるを得ない。

ここで毎日レトルトを食べてるとか、毎日コンビニ飯だとか、食事の”エサ”化*1を甘受できる思考停止した人間だったら苦悩は生じなかっただろう。

 

自分は大学で医療を学び、一通り必要な栄養と食事の関係性を頭に叩き込んできている。そのうえ、外回り・会食の多い都心の社会人生活はすぐに私の舌と目を肥えさせた。 なまじ人間ぽいしぐさを身に着けてしまったばっかりに「なんかいい感じのものが食いたい」というボンヤリした欲求だけが生じるのだ。

 

長い前置きになったが、完全食と話題のCOMPにお試しセットがあることを教えてもらったので購入した。

自分は酒もタバコも昼夜逆転もやるアンチ健康志向(懲罰的な生活習慣管理のある医療はくそくらえと思っている)なので、楽して健康になれるならいい話だと思っている。

きちんと喫食したらレポをします。

*1:ITベンチャーでバイトしていた頃によく聞いた言葉。そこのチームではランチタイムが気分転換として重要視されており、毎日なるべくいろんなランチ弁当をみんなで並んで購入し、食に興味の薄いエンジニアたちの食事時間が作業っぽくなることをお互いに防いでいた。